「名古屋内科医会」は、1963年3月の設立総会で発足し、同年5月の第1回例会は愛知県医師会館に名古屋大学名誉教授勝沼精蔵先生を迎えての講演会であった。以来、ほぼ毎月の“例会”、年3回の“会誌”発行など、わが国でも最も長く古い伝統を保持している。第100回例会は1973年1月20日(沖中教授講演)、第200回例会は1983年4月23日(祖父江教授講演)、第300回例会は1992年11月21日と、例会は回を重ねて、創立30周年の1998年には名古屋内科医会会誌は第100号となった。次いで、第400回例会は2002年2月9日に行われて更に回を重ねている。
愛知県下の内科医会は、1980年より合同例会を開催し、1990年には「愛知県内科医会」が発足して毎年1月と8月の年2回に“合同例会”が開催され、それぞれ2題のうち1題は学術講演、1題は文化講演としている。
例会は臨床を中心とした講演会であるが、これとは別に、基礎的な分野を話題とした学術の集いが1965年から83年までに29回開催され、1989年(平成元年)から回数を新たにして“学術の集い”を年3回開催してきている。
名古屋内科医会の目的および事業は、会則に記されているとおりですが、日進月歩の医学の進歩に対して生涯教育の重要性が高まる今日、内科医はエビデンスに基づいた最新の知識を学ぶ機会に幅広く接して、これを臨床に生かしていく義務があると考えています。特に、近年の新薬の開発とそれらの治療に基づくエビデンスの蓄積には目を見張るものがあり、高血圧・糖尿病・高脂血症などに対しては旧来の薬物に固執した医療では患者さんが救われません。内科医会に入会し、例会に参加して、大いに質疑応答をして頂きたいと考えています。
名古屋内科医会の沿革
草分けの頃
名古屋内科医会初代会長の毛利孝一先生の書かれた「草分けの頃」と題する一文(名古屋内科医会例会300回・創立30周年記念特集、1993年7月)から、名古屋内科医会の始まりを抜粋する。
昭和37年末のある日のこと、突然に名古屋市医師会長の葛谷清先生から「市の医師会で各科の分科会を組織する、内科の分科会も作るから、君会長になってくれ」と電話があった。そのときに「名古屋内科会」の噂も出て、私は前々から気の会う同志で勉強会をやりたいと思っていたので、「私でよければ」と返事をした。
しかし、「名古屋内科会」という勝沼精蔵先生を中心に時々集まる会(大正5年創立で名古屋の長老の内科医を中心としたサロン風の学術団体)があるのに、今更いかに小さな会でも「名古屋内科医会」と名乗って私が初代会長とは何とも心中おこがましく、勝沼先生に何とご挨拶するか、この点全く気が重かった。
勝沼先生は昭和42年に名古屋で開催される日本医学会総会の会頭に決まっていたが、昭和38年4月に京都での第16回日本医学会総会の折に、内科医会の一件をお話すると「名古屋内科医会、いいだろう、しっかりやり給え、名古屋の総会では皆さんのお世話になるからよろしく」との言葉を聞き、安堵の喜びが脳裏にある。残念なことに勝沼先生は総会を待たずに昭和38年の秋に急逝された。
「名古屋市医師会史」(15年のあゆみ:昭和35年〜51年)の1963年(昭和38年)の目次に「名古屋内科医会を発足す」の題目があり、5行の記事と会長以下、執行部の役職氏名が掲載されている。それには、“かねて設立準備中であった名古屋内科医会は昭和38年3月29日県医師会館で設立総会を開催し、会則を原案通り可決し、役員・顧問に次記の諸氏を選出し、名古屋内科医会は誕生した。なお設立当時の入会者は約350名。役員・顧問は次のとおりであった”とある(表1)。
会長 | 毛利孝一 |
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副会長 | 山瀬不破彦、曽我立巳 |
常任理事 | 上岡和夫、江崎達夫、都島兼三郎、山本豊、佐久間文雄、 中村新三、高田文夫 |
理事 | 山本四郎、石川道雄、大野円三、伊藤千秋、杉浦正敏、 鈴木慈郎、土井次雄、矢崎富美人 |
監事 | 大庭七夫、石田凱夫 |
顧問 | 絹川常二、服部銈三、葛谷清、勝沼精蔵、青山進午、 日比野進、山田弘三、戸谷銀三郎、織田敬信、小川巌、 斉藤宏、岸川基明 |
名古屋内科医会の会報の創刊は昭和39年7月1日発行で、10頁から成り、最初の頁に「会報発刊にあたって」と題して会長毛利孝一の挨拶文があり、顧問をお願いした先生がたの8篇の祝辞を載せている(因みに当時大学は名古屋大学と名古屋市立大学の2校だけであった)。
1.会報発刊を祝う | 小川 巌(名古屋大学名誉教授) |
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2.名古屋内科医会会報創刊に寄す | 日比野 進(名古屋大学第1内科教授) |
3.雑感 | 織田敬信(名古屋市立大学内科名誉教授) |
4.名古屋内科医会会報創刊によせて | 斉藤 宏(名古屋市立大学内科教授) |
5.旧内科医会の思い出 | 絹川常二(元愛知県医師会長) |
6.内科医の集いの回顧 | ヰヅチ・タカシ(会員・開業医) |
7.祝創刊 | 服部銈三(愛知県医師会長) |
8.会報発刊を祝して | 葛谷 清(名古屋市医師会長) |
顧問の日比野進先生からは「研究は書いて発表しなければ無意味である」旨を懇々と諭され、会報の意義や今後のあり方について、先達の大学者としてきびしい示唆と励ましを賜った。
名古屋内科医会の歩み
初代会長の毛利孝一先生は1963年の草創期から25年間に亘り会の発展に尽力されたが、草創期のご苦労はモ草分けの頃モの記述どおりである。1985年には第11回の全国臨床内科医の集いが名古屋で開催され、その総会において「日本臨床内科医会」が発足した。1988年(昭和63年)の第249回例会まで名古屋内科医会会長を務められ、名誉会長となられた。平成14年3月5日に他界されたが、先生の業績は名古屋内科医会会誌第111号(2002年7月号)の毛利孝一先生追悼特集に詳しく述べられている。
第2代会長の宇野立男先生は1988年より5年間に亘り、内科医の組織化と更なる内科医会の発展に尽くされた(この経緯は1989年7月の第72号名古屋内科医会会報の会長挨拶に述べられている)。1990年には愛知県内科医会を発足して初代会長にも就かれ、日本臨床内科医会副会長の重責を兼任されて、1992年には第6回日本臨床内科医学会が名古屋市で開催された。その翌年に名古屋内科医会会長を太田宏会員にバトンタッチして名誉会長になられ、1996年には愛知県内科医会会長を恒吉英彦先生に渡されたが、現在も内科医会に種々助言を頂いている。
第3代会長の太田宏先生は1993年(平成5年)4月に就任され、副会長は後藤宗治、中村宏雄、佐藤徹の3名であった。2002年の日本臨床内科医会総会を担当され、2010年3月まで愛知県内科医会会長を兼任されました。2007年に愛知県で開催された第3回(通算21回)日本臨床内科医学会の学会長としても活躍されました。